心に響く本・詩歌・言葉・音楽・風景
私の読んだ本や聴いた音楽、出会った風景の中から心に響いたものを紹介します。
猫日記「ハオ&ミューの日々」第42回
猫日記「ハオ&ミューの日々」第42回  

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      高い所の好きな、身軽なミュー。

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             散歩とシャワーの好きなハオと、べたべた甘えん坊のミュー。

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休日の朝、ゆっくり新聞を読み始めると…。

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             面倒見のいいお姉さんのハオと、ハオのことが大好きな弟分のミュー。

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      我が家がお店だったら、店番に置きたいハオ。「いらっしゃいませ」。

テーマ:猫のいる生活 - ジャンル:ペット

心に響く本-内藤好之著『みんな俳句が好きだった』
 内藤好之著『みんな俳句が好きだった』-各界100人 句のある人生-
   (東京堂出版/2009年/2000円)
   ここに引用したのは、俳句そのものより、書かれた言葉に興味を引かれた人たちです。


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P106 吉屋信子   まことより嘘が美し春の宵
疎開先の鎌倉で、同地に住んでいた虚子を訪ねて俳句の指導を乞うた。「俳句とは万斛(ばんこく)の憂いを蔵してわずかに一語を発するもの」という虚子の言葉を「ホトトギス」で読み、感動したからだった。虚子は「俳句というものは小説と違ってごく小さい狭い部分を」といって、指で丸を作り、そこをのぞく顔をして、「これを見つめることです」と説明したという。ホトトギスのバックナンバーを創刊号からことごとく読破した。

P140 小津安二郎  春の雪石の仏にさはり消ゆ
小津映画は、定型の枷の中で表現する俳句に似ているともいえる。小津語録の「七分目から八分目を見せておいて、その見えない所がもののあわれにならないだろうか」「芝居も皆押し切らずに余白を残すように」「感情過多は、ドラマの説明にはなるが、表現にはならない」などは、作句の心構えに通じる。色彩豊かな蕪村の句を好んだ。


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P142 林芙美子   飛翔する鷲の心に旅愁あり
俳句は、「生きのいい魚のようなもので、文字がぴちぴちしてなくては心を打って来ない」、また「その場で出来る句にしても、何か長い間かこっておく麹(こうじ)のようなものがなくては席題をもらってもはっこうしてこない」と書いている。
評論家辻潤「あなたは詩をからだ全体で書いています…貧乏でもはつらつとしている」と高評した。

P196 中西龍(りょう)NHKアナウンサー
求められると色紙に、「茫々哀憐(ぼうぼうあいれん)」と書いた。「はかない人生だから、人や自分を憐れみ、やさしくして、精いっぱい生きていたい」といった意味だという。


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P204 折笠美秋   ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
筋萎縮性側索硬化症で全身不随の作者が、かすかに動く目と唇で伝えるのを、智津子夫人が懸命に読みとった句。そんな夫人への労りと感謝が溢れる。恩師のS先生のことを思いました。
                 妻の手が我が手 一文字を書くことも

                 大雨を妻は来つ 胸中さらに豪雨ならむ            

                 次の世は茄子でもよし君と逢わん

 俳句への情熱を持ちながら、病気(特に結核多し)や戦争で、それを断たれてしまった人たちの句が印象に残りました。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

あんなことこんなこと-5月15日&おすすめの映画
何年前だったろう、5月15日がちょうど休日にあたり、初めて「葵祭」を見に行った。祭の行列と並行して歩いていくうちに、京大が見えてきた。せっかくなので、京大北門近くのレトロな喫茶店「進々堂」に寄ることにした。ガラス越しに中を見ると、なんと、歩道に面した席に知人が居るではないか。同じマンションで、子どもも保育園から一緒という長いお付き合いのYさんだ。すぐ傍の知恩寺で毎月15日に手作り市をやっていて、それが好きでよく来るとのこと。今日も素敵な布ぞうりを手に入れたと、買ったものを次々見せてくれる。そんな楽しい所ならと、私たちも立ち寄ったのが、初めての「手作り市」体験だった。Yさんとは別行動だったのだが、住まいのある駅の改札で、再び会うという偶然のおまけ付きの一日だった。

 そして、今年の5月15日、久しぶりの休日である。数年前に手作り市に誘い、それ以来すっかりはまった友人のEちゃんは、買う側の人だったのに、今や売る側の人になった。この5月も抽選があたって、手作り市に出店できるという。初めて「葵祭」と「手作り市」を体験した休日を思いだし、久しぶりに今年は…なんて思ったりしていたが、長男から帰るよとの電話。電車で15分ほどしか離れていないのに、めったに帰ってこない長男の今回の帰省(宅?)は、お正月以来のため、昼食を作って待つこととする。ベランダで育てたというパセリと乾燥させたローズマリーをお土産に持ってきてくれた。しかし、帰ってきても数時間で下宿に戻るのは、今回も同じ。すっぽり空いた時間を、日曜日に行く予定だった映画鑑賞に当てることにした。

     オーケストラ1005

 と、前置きが長くなりましたが、最高に面白かった映画のおすすめです。私が映画を見るとき参考にするのは、もっぱら犬塚さんの「太秦からの映画だより」なのですが、今回はこれに加え、短歌のお仲間からの熱いすすめもあって、出かけました。
「オーケストラ!」フランス映画ですが、主人公はロシア・ボリショイ交響楽団の指揮者と楽団員、そして美貌のヴァオリニスト。気持ちのこもった演奏に、聴いている方も力が入りました。レイトショーだというのにほぼ満席で、照明がつくまで誰も立たないということだけで、感動のほどはお伝えできるのではと思います。あとは、どうか皆さんお出かけになって、拍手をおくって下さい。クラシックの演奏会では、ついうとうと…ということの多い私ですが、これからは違う目と耳で演奏を聴けそうです。楽しく、かつ心から揺さぶられた映画でした。

     春との旅1005

 「春との旅」、こちらはまだ未公開ですが、春役の徳永えりさん(「フラガール」で蒼井優さんの友人の役でした。)つながりで、ご紹介します。彼女は、私の息子たちと同じ中学校の出身で、知人が一生懸命応援しています。演技力のある彼女と仲代達也さんのコンビで、見応えのある映画に仕上がっているのではないかと、大いに期待しています。


テーマ:★おすすめ映画★ - ジャンル:映画

季節の詩歌(16)~虹の足~
            季節の詩歌(16) ~虹の足~ 

「空」誌30号(2010年4月)に載せていただいた拙文と、5月の連休に兵庫県山崎町で撮った藤をアップします。
長い文章ですので、お時間のある時にでも読んでいただけると、嬉しいです。         

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身をそらす虹の
絶巓(ぜってん)    
        処刑台            高柳重信


地から天へ大きな弧を描いた虹の頂点に、ぶらりと垂れ下がる首吊り縄。夢や希望の象徴として語られることの多い虹と、処刑台(日本ならば絞首刑台)の取り合わせが、私の中で未解決のまま気になっている句である。読むたびに想像力を刺激され、頭の中にさまざまな物語が浮かぶ。私はなぜかこの句に、希望の果ての絶望と、絶望から始まる希望を感じるのである。
作者が作った話には、「バスケットボールのゴールをねらうかと思えた少女が、ボールではなく僕自身を投げ上げ、首のあたりが金輪にひっかかった僕は、空中に吊りさがり、揺れ動くばかり。」とある。処女句集『蕗子』(三年後に誕生した娘の名前も「蕗子」)の最初にこの句を置くことで、作者は俳句に対する覚悟を表明したのではないだろうか。
『虹をつかむ男』という映画の題に、私が影響されているのかもしれないが、虹を実体としてとらえようとするのも、虹に夢を託そうとするのも、男性の方が多いのではないかという気がする。

地平線に大きくかかる夕虹に向ひてひたすら歩みゆく男      太田青丘

後ろを振り返ることなく、周りの反応を気にすることなく、自分の目指す虹に向かって、ただ一心に歩く男。虹が消える前に辿り着いて、虹を掴みたいのだろう。大きく頑丈そうな背中を見せながら、無骨な生き方そのままにまっすぐ歩む男がいる。そして、私は、その切羽詰った様子に感動すら覚える。

ああ僕の大好きだったライ麦パン 雨に打たれて虹をつかむさ   和嶋勝利

上句から下句への流れが唐突である。でも、私は、「虹は雨上がりに立つ」などと、無粋なことは言わない。作者は、自分が原因で大好きなものを失ってしまったのだ。その喪失感は、自分を罰するように雨に打たれることでしか埋められない。いや、失ったものも夢も虹も、そういう無謀なやり方でないと手に入れることはできない、と作者は思っている。
「虹はつかめなくても、せめて虹に近づきたい。」そう考えるのも、男性の方が多いではないかと、次の三句を読んで思った。

ゆけどゆけどゆけども虹をくぐり得ず  高柳重信

いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず    山口誓子

畦を違へて虹の根に行けざりし     鷹羽狩行

どの句も、童子のような純粋さである。誰でも一度は子どもの頃に試したことがあるようなことばかり。虹の下をくぐりたい。虹のかけらを拾いたい。虹の根に触りたい。しかし、どれも実現はしない。この三句、いずれも句末が否定形なのである。空想は現実にはならない。それがわかるのは、大人になってからのことだが、それでも願いたいのはなぜか。自分の中に子どものような純真な気持ちを見つけて、少し照れつつ遊び心で詠んだ句なのかもしれない。女性が同じように詠むと、甘くなり過ぎる気がするのは、私の勝手な判断だろうか。

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私にも虹にまつわる子どもの頃の思い出がある。
中学生になって三か月ほど経った頃のことだ。その日も私は、小学入学時からずっと同じクラスのKちゃんと一緒に下校していた。道を曲がり下り坂に差しかかった所で、真正面に濃い虹が見えた。「虹の端を見に行こう!」重いかばんを道路の脇に置き、私たちは坂道を駆け下りた。どうやら虹の端は、川原にありそうだ。本通りを横切り、私たちは真直ぐ川に向かった。しかし、息を切らせた私たちが川のほとりで目にしたのは、消えかかった虹だけだった。

最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片          斎藤茂吉

芦むらにうすれかかりぬ虹の端     石原舟月

後山の雲の高みに虹消ゆる       飯田蛇笏

これらの歌や句は、具体的な場所こそ違うものの、まさにその時、私たちが見た情景である。

虹消えてふたたびひろき空のもとありありとわれのうしなひしもの    春日真木子

やがて虹は完全に消えてしまった。虹に触(さわ)れるせっかくのチャンスを生かせなかった私たちは、しょんぼりと元の道を戻った。幼かった私たちは、真剣に「虹はつかめる」と思っていたのだ。右の歌の作者に「ありありと」見える「うしなひしもの」が、まだ私たちにはなかったから。あれから四十年以上が経ち、未来より多くの過去を背負い込んだ私たちには、空を仰いだときの作者の深い感慨がわかる。
とは言っても、今でも時々、空を仰ぎながら、七色の虹の橋をわたり、夢の世界に行くことを空想することがある。美しい虹が、そう思わせるのだろう。

虹の橋わたれば故郷近くなる      赤尾恵以

何年前のことになるだろう、西に向かう新幹線の車窓から、大きな虹が見えた。久しぶりに故郷への一人旅をする、私の心弾みを知っているかのような虹であった。神戸の町が近くなってもまだ虹は消えず、阪神大震災の痛手が残る町を、柔らかい光の環で囲んでいるようであった。
吉野弘の詩「虹の足」の中にある「おーい、君の家が虹の中にあるぞオ」という一節が、頭に浮かんだ。どうかこの虹を、そこに住む人たちが仰ぎ、新たな希望を抱くことができますようにと、祈るような気持ちで見つめていたことを覚えている。

虹の環を以つて地上のものかこむ    山口誓子

虹の根にいる幸せを知らずいる      稲垣恵子

遠くからは見える虹が、そこに居る人には見えない、ということがあるのだろう。幸せの中に居るのに、それに気づかず生きているのと同じように。

希望ありかつては虹を待つ空にいまはその虹消えたる空に         小島ゆかり

虹そのものに、希望があるわけではない。人の心の中にこそ、希望はあるのだ。この歌は、実体のない虹にたやすく希望や夢を託してしまう人間に、考えることを促す。優しく見えて、厳しい歌だと思った。

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ところで、人はなぜ、自然現象の一つに過ぎない虹に、幸せや希望や夢を感じるのだろう。虹は、「半円形の色帯。太陽を背にして立つと、前面の雲の中に現れる。日光のスペクトルである七色に分かれ、普通の虹は内側から、紫・藍・青・緑・黄・橙・赤となる。外側に見えることのある弱い光の二次虹(副虹(ふくこう))は、光の配列が逆。俗に、朝虹が立てば雨、夕虹が立てば晴れといわれる。朝虹は西、夕虹は東に立つ。」言葉で説明をすれば、これだけのことであるが、人は、虹が出ると嬉しいし、消えると寂しい。

虹立ちて忽ち君の在る如し       高浜虚子

虹の思いがけない出現に、君が居るような幸福感を覚える作者。それは、心浮き立つ恋の華やかさだ。

虹消えて忽ち君の無き如し       高浜虚子

はかなく消えた虹に、君を失った寂しさを感じ、呆然とする作者。虹と同化した「君」の大きさを思う。

邂逅(めぐりあ)ひて今日あることのはかなきに待ちつつ昼の虹を見てをり        三国玲子

諦めて別るるすべも得られむとひとり来し旅の空に虹見つ         大西民子

この二首は、すでに空に架かっている虹の、消えていくまでを見届けている歌だと思う。願いをかけていた虹が消えることで、断ち切ろうとしているものが、作者にはある。夢のように美しかったものも、いつかは消える。それは、恋も同じであろう。虹を見ながら、人は、人との出会いと別れまで考えてしまうのだなと、少し切なくなる。

立原道造の詩「虹とひとと」に、次の一連がある。

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
叢は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 黙つて!


この詩のテーマは、愛し合っていた二人の愛が終わるところにあるのだが、私は、この連の四行目に興味を持った。虹を仰いでいるとき、確かに人々は黙っているのだ。ぽかんと口を開けることはあっても、声を発しないのは、圧倒されているからだろうか。虹の方も、無音のまま出現するから、忙しい大人はなかなか気づかない。たいてい子どもが先に見つけて教えてくれ、肩を並べて見上げることになる。

虹立つも消ゆるも音を立てずして   山口波津女

虹のもと童行き遭へりその真顔     加藤楸邨

をさなごのひとさしゆびにかかる虹   日野草城

コンビニのおにぎりたちは夕虹に気づかぬ者に売られてゆくよ       千葉 聡

この歌の作者は、虹に気づいて感動している。が、他の人に声を掛ける訳ではない。ただ、空を仰ぐ余裕もなく追われるように忙しい生き方が、哀しく寂しい。神秘的な美しさを持つ虹が、人生の大切なものを教えてくれているのに…。虹に気づかぬ存在が、無念なのだ。街中で出会う以上に、雄大な自然な中で見る虹は、神秘的で美しく、魂が揺さぶられる。

虹なにかしきりにこぼす海の上     鷹羽狩行

雨が上がり、きらめきを取り戻した海面。それは、まるで虹からこぼれ落ちた光と色の粒子が遊んでいるようである。「なにか」には、目に見えないさまざまなものがこめられている、と私は感じた。

虹立ちて湖を歩める虹の足       森 澄雄

比叡より立ちたる虹の大らかに湖(うみ)を跨ぎて鈴鹿嶺に落つ         飯田棹水

湖上を歩む虹の足も幻想的であるが、琵琶湖を完全に跨いでしまうような大きな虹も素晴らしい。こんな虹に出会えたら、感激のあまり、私は手を合わせて祈ってしまいそうだ。


テーマ:短歌 - ジャンル:小説・文学

心に響く本-岡本眸著『俳句は日記』
 岡本眸著『俳句は日記』(NHK俳壇の本/2002年/1300円)より
      共感を覚え、勉強になることをたくさん書き抜きました。その一部を下記に引用します。

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p112
俳人には、大きな景を詠むのが上手な方と、非常に身近なものを細かく見て詠むのが上手な方とがいます。これは、それぞれの俳人としての質のようなもので、大景が詠めるからその人は立派で、小さい景だから駄目だということはありません。
皆さんそれぞれに、ご自分の好きな景、嫌いな景というものがあると思うんですよ。私は自分が好きなものを詠みますね。詠みたくないものを詠んでも、いい句が出来るわけはないでしょう。
句を詠もうと思うと、恋をして、惚れ込んだような気持ちになるんですね。惚れ込み方の激しさいかんで、句の良し悪しが決まる気がします。ですから、句柄が非常に淡くてほのぼのしていても、いい句には、必ずグーッと引き締まった芯があります。淡いならば淡いなりに、言葉遣いがやさしければやさしいなりに、どこかに必ず人を引きつける一点があるんです。

P130
結局、写生とは、ただ景を写すのではなく、景の中に自分の感動を認めて、その感動を写すものなのです。・・・本当の写生とは、景の中にある、自分が感動した焦点を、具体的に描くものなのです。


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P162・163
細かいところを見る習慣をつけていくと、カメラのように写し出すことができます。そこに、自分の気持ちの裏打ちがあって、俳句に奥深さが出てくるわけです。ですから、俳句というのは、あくまで具象性で押していかないと、駄目ですね。物で押していく。目を利かす、目を働かすということを考えられるといいと思います。
何度来た所であっても、今日のこの景は今日しかないんだと思うんです。・・・「一期一会」の思いですね。そういう「精神の緊張感」が感動を生むのですね。その感動を言葉にする。その感動した景を素直に描く。それが俳句です。

P168
俳句は「線」や「面」ではなくて、「点」だと思うのですよ。継続を報告するものではなく、一点を切り取るものなんですね。それには、もう少し踏み込まないと出来ませんね。対象と自分との距離を縮めてゆく、凝視によって、心理的に対象と一体になるんですね。


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 この本を読みながら、俳句・短歌・写真には共通点が多いなと改めて感じました。言葉ではわかっていることであっても、身についてないことも多いので、時々はこういったタイプの本を読み直して、肝に銘じる必要があるようです。

以前読んだ本で、歌人の吉川宏志さんが、作歌のさい「場の空気感」を大切にすると書かれていて、その通りだなと納得したことを覚えています。先日、俳人の伊丹三樹彦氏からまたご本(2002年刊)を頂き見ていたところ、写真を撮るとき大事なのは「空気感」、それは俳句を詠むときにも通じると書かれていました。

おそらく接点のないお二人が、それぞれ専門の場で同じことを考えておられるのを嬉しく思いました。作句・作歌・写真を撮るさい「空気感、空気感」と言い聞かせている私としては、この三つの共通点を心強く感じます。




プロフィール

大空の亀 

Author:大空の亀 
写真の猫は姉のハオと弟のミュー。
ハオは2006年5月5日生(伝)。
ミューは2008年10月10日生(伝)。

空と言葉と草木花が好き。
趣味は読書・文芸。

読書ノート歴33年。
年間読書冊数の平均は、学生時代は
300冊、就職後は100冊~150冊。

ブログ歴 11年8カ月
2006年 3月17日から始めました。
2006年 9月 9日カウンター22222通過
2007年10月24日カウンター77777通過
2008年 5月23日カウンター100000突破 !
2008年 9月 8日カウンター111111通過
2011年 5月 4日カウンター200000突破 !
2012年 1月10日カウンター222222通過
2014年 9月15日カウンター300000突破 !
2017年 9月26日カウンター343434通過



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