心に響く本・詩歌・言葉・音楽・風景
私の読んだ本や聴いた音楽、出会った風景の中から心に響いたものを紹介します。
心に響く風景-天神祭陸渡御
天神祭陸渡御に行ってきました。

15:30催太鼓(モヨオシダイコ)を先頭に、天満宮を出発。天狗の面の猿田彦が、馬にまたがって渡御列を先導し、神鉾(カミホコ)、地車(ダンジリ)、吉備講(キビコウ)、獅子舞(傘踊り、四つ竹も)、狸々山車(ショウジョウダシ)、采女(ウネメ)、稚児、敬神婦人会、文車(フグルマ=菅公の本を運ぶ)、牛曳童児(ウシヒキドウジ)、錦旗(キンキ)、風流花傘、唐櫃(カラヒツ)、総奉行、大真榊(オオマサカキ)、御車(オハグルマ)、御太刀(オンタチ=菅公の太刀)、御錦蓋(オキンガイ=日傘)、御菅蓋(オカンガイ)、御鳳輦(ゴホウレン=菅原道真公の御神霊を奉安した神輿で、渡御の中心的存在)、 瑞枝童児(ミズエノチゴ)、斎王、氏子総代、鳳神輿、玉神輿、天神祭囃子で、3000名2時間ほどの陸渡御は終了。続けて、船渡御へ。

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  催太鼓の若者たち。真紅の投頭巾をかぶった願人(ガンジ)が、勇ましくてかっこいい!

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  この先頭の青年二人(花の人と傘の人)の顔と動きが、とっても素敵でした!特に足の動き!
  傘踊りの集団は、お囃子も踊りもリズミカルで洒落ていました。
  踊り手の衣裳もかっこよくて、衣裳と傘についている鈴の音と、元気なかけ声が華やかで、祭の雰囲気を盛り上げていました。

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  獅子が氏子の家に入り、お店の前で互いに「大阪じめ」(=打ちまーしょチョンチョン、もひとつせ~チョンチョン、祝うて三度チョンチョンと、三度の手拍子)を交わしているところです。地元密着で、祭本来の意味を失っていないことに心ひかれます。

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  稚児さんたちは、ほんとに可愛くていいお顔!二階からの呼び声に顔を向けているところ。

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  花飾りをつけた牛、たくさんの馬も、暑い中、長い距離を歩いてお疲れ様でした。

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  手の届くほど間近に見た御神輿は、大変な迫力でした。相当重そうです。

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  天満宮境内では、お囃子を奉納している人たちがいて、皆の注目を集めていました。
  御列が出た後の各講では、獅子に頭を噛んでもらっている人もおり、興味深かったです。
 
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    出店も天神橋筋商店街も、大変な賑わいでした。商店街独自のお神輿もありました。

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 町人が、自分たちの力で守り育ててきた祭だけあって、参加をしている人の顔が生き生きしているのが、素晴らしかったです。1000年の歴史と今を生きる人のエネルギーと両方を味わうことができて、心を沸き立てるお囃子と、バラエティに富んだ衣裳にわくわくしっぱなしでした。運よく日陰で見ることができ、風も吹いて快適で、初めての陸渡御見学は、最高に楽しかったです。

テーマ:祭り/イベント - ジャンル:写真

心に響く本-高木仁三郎氏の本
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「空」誌にいつも素晴らしいエッセイを載せておられる川上義則氏(元新聞記者)の今号(37号・2011年6月発行)の記事は、いつもにもまして心に訴えかけるものがありました。全文読んでいただきたいのですが、そういうわけにもいかないので、以下に少し引用します。ぜひお読みください。省略した関係で、( )の形で若干私の付け加えがあります。

・・・大惨事となった1979年の米スリーマイル島事故や1986年、旧ソ連のチェルノブイリ事故。国内でもこの二十年間、茨城県東海村のJCO社の臨海事故や福井県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れをはじめとする重大事故や、事故隠し、データの改ざんが繰り返された。安全神話はとっくに崩壊していたはずではなかったか。
ましてこの国は広島・長崎の記憶をもつ。原発への不安が国民規模の反原発、脱原発の動きに高まりにくかったのはなぜか。・・・繁栄のなかで骨の髄までしみついた私たちの安楽志向が、彼らの強弁(=絶対安全)に耳をふさがせてきたことも否めない事実だろう。

・・・(途中、水俣病と取り組んできた原田正純医師の紹介がありますが、ここでは省略します。原田氏も正義感と実行力のある素晴らしい方です。ぜひ、著書の一読を!)・・・
今回の原発事故で、水俣病と同じ構造が拡大再生産されている。強度の毒物による健康被害と環境汚染。地域経済の崩壊。住民の不安に聞く耳もたぬ隠ぺい体質。そして国策的経営の背後に政府が控えていることだ。・・・安全性の担保を置きざりにしたまま、ただ前のめりの現代科学技術の多くに、人々は生活の利便を超えて、不安を感じている。そのシンボルが原子力なのだ。

こうした時期にこそ、その発言を聞きたかった人物がいる。原子力資料情報室や高木学校を設立、2000年、62歳、志なかばで逝った高木仁三郎(たかぎじんざぶろう)さんだ。東大で核化学を専攻、原子力産業に就職したが、暗に原発推進の旗振り役をさせられることに疑問をもち、大学で教えたあと、反原発に転じ、運動をリードした。
がん死の二か月前、病床で口述筆記を終えた最後の著書『原発事故はなぜくりかえすのか』で、「・・・根本の問題をおきざりにした日本の原子力行政は、もっとひどいところにいくのではないか。最悪の事故のようなものが避けられないかもしれない。とんでもない事態が起こっているようで、かけ値なしの恐怖感が私にはあるのです」と語っている。
(以下、残念ながら省略いたします)

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 この文章を読んで、早速、高木仁三郎氏の本を3冊注文し読みました。何10年も前から、現在の状況をすべて予測され、一生懸命訴えておられたのに、思考を停止して享楽的に生きてきた私たちに、それをきちんと受けとめる力がなかったことが悔やまれます。どうか、より多くの方に、この本を読んでいただいて、未来にこれ以上負の遺産を残さぬよう、皆で賢い国民になりましょう!と訴えたいです。

 高木仁三郎著『原子力神話からの解放-日本を滅ぼす九つの呪縛』 
(講談社+α文庫・762円・2000年に刊行された書物に編注をつけ2011年再刊)

 科学には疎い私にも大変読みやすく、次々とあげられる事実に、夢中で読み進みました。高木氏とは反対の立場である原発推進側の原子力産業会議から基調報告の依頼を受けるというほどの著者による、非常に冷静な文章で、大変信頼できる内容の本です。以下に引用。

これまでに私は、九つの神話(①「原子力は無限のエネルギー源」という神話 ②「原子力は石油危機を克服する」という神話 ③「原子力の平和利用」という神話 ④「原子力は安全」という神話 ⑤「原子力は安い電力を提供する」という神話 ⑥「原発は地域振興に寄与する」という神話 ⑦「原子力はクリーンなエネルギー」という神話 ⑧「核燃料はリサイクルできる」という神話 ⑨「日本の原子力技術は優秀」という神話)について述べてきました。

今、神話化されてきた諸々の事柄を全部きれいに白紙に戻し、根本に立ち戻って、一から点検し直す必要を痛感しています。この時期に出直すということをやらないと、原子力問題だけではなくて、国際的な競争とか、もっとはっきり言えばアメリカの支配力みたいなものに、いよいよ抗しえないような状況に日本は追い込まれていくのではないでしょうか。それは、今、原子力の分野で見えてきていることですけれども、原子力だけではなく、日本全体として当てはまるようなことではないかという気がします。

政府は原発の寿命を当初、四十年くらいと想定してきましたが、・・・あと二十年くらい延長できるんだと言い始めています。・・・これは非常に警戒しなくてはならない状況です。というのは、政府が言うところの高経年化、私が言うところの老朽化がますます進んでくるからです。運転年数が三十年以上の原発は相当老朽化していると思いますし、すでにデータで見たように、いろいろなトラブルが増えてきます。四十年以上になったら、もっとトラブルが増えてくるでしょう。そういうなかで動かし続けることが、思わぬトラブルを生んで大事故につながるだろうという問題があるから、たいへん怖いわけです。

これには、新しい原発がなかなか建てられない(地元の反対)状況のなかで、今ある原発の寿命を長びかせようとする政府のエネルギー政策と同時に、電力会社にしても、新しい原発を作ると非常に高くついて、電力自由化の時代に生き残れませんから、古い原発を長期間稼働させて、コストを下げたいという事情があります。・・・私たちにとって重要なのは、コストの問題ではなく、何よりも安全性の問題です。


この本1冊だけでも、原発の問題点がいかにたくさんあって、悠長に構えてはおられない状況かということがわかります。これ以上、事がひどくならないうちに、政府と電力会社に、ドイツと同様の英断をお願いしたいと、切に思います。

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  【眠気覚ましのパソコンをやっている私のそばで爆睡をしているミュー】

 高木仁三郎著『プルトニウムの恐怖』
(岩波新書173/1981年・2011年第25刷/760円)

表紙裏より~プルトニウムは、原子番号94の元素で、自然界には存在せず、人工的にのみ合成される。その一族プルトニウム239は半減期24100年の猛毒の放射性物質で、原子力発電の副産物としてできる。

あとがきより~科学技術の問題は、それを成立させる科学的原理や技術的可能性といった側面からだけではなく、すぐれて社会的な文脈の中でとらえられなくてはならなくなってきています。とくに、原子力やプルトニウムの問題は、すでに誰しもが認めるような、核兵器からエネルギーの問題、ひいては私たちのライフ・スタイルや文明の問題へとひろがっています。このような問題について、問題の背景となる科学技術的な基礎を正確に把握し、しかも社会的な光をはっきりと投射しながら考え続ける、というのがこの十数年間私の心がけてきたことでした。


具体的な数値がたくさんあげてあるので、数字の苦手な私にはちょっと読みづらかったのですが、このあとがきにあるように、高木氏の広い視野に立った考えで書かれたこの本に、深い感銘を受けました。原発だけでなく、私たちみんなの生き方が問われています。


 高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』
(岩波新書703/2000年・2011年第10刷/700円)

表紙裏より~日本中を震撼させたJCO臨海事故をはじめ、数々の原子力施設の事故から明らかになった国の政策や原子力産業の問題、技術者の姿勢を問い、これからの科学技術と人間のあり方を考える。生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が闘病中に残した最後のメッセージ。

最後のメッセージより~残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でも、それは時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO臨海事故をはじめ事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。


内部告発でやっと表に出る事故、数値の改ざん、人間の手が直接触れることなく機械と頭の中だけの計算…どの原発事故も、起こるべくして起きた事故だったのだと、この本を読んで確信しました。自分の仕事に本気で責任を持つ、機械の不備や故障より前に、そういう人間性こそが重要であろうと思いました。著者の最後の思いがこもった名著です。

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  【完璧な半円の虹だったのですが、大きすぎて…。長い時間、屋上で見上げていました。】

 右リンク先の「うみそら居士さんの『原発のない社会をめざして』」に、たくさんの情報が掲載されています。また、前にご紹介した城南信用金庫の吉原理事長や小出助教授の発言を映像で見ることもできます。オススメのサイトです。

テーマ:原発事故 - ジャンル:ニュース

季節の詩歌(23)~雨のすること~
 俳句雑誌「空」37号(2011年6月15日発行)に載せていただいた拙文です。

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季節の詩歌(23)~雨のすること~

年をとるにつれて体の水分が失われていくせいだろうか、雨が降ると体がほっとする。そんな私の気持ちにいちばん近い詩は、八木重吉の「雨」だ。

雨は土をうるおしてゆく / 雨というもののそばにしゃがんで / 雨のすることをみていたい

軒下か傘をさしてか、いずれにしても室外で雨のそばにしゃがんでいる作者がいる。雨脚はまだ強くない降り始めたばかりの雨だろう。雨が、乾いていた土の色を変え、しだいに地面を潤していくのを見ていると、その雨が自分の体や心にも入っていく気がするのだと思う。やがて雨に包まれ、人も人を取り巻く世界も、しっとりと落ち着いてくるのだ。

かぎりなき雨の中なる一本の雨すら土を輝きて打つ           山崎 方代

この歌の作者も、雨の動きとそれを受け止める土をじっと見つめている。「雨すら」という言葉に、人の世における自分という存在を卑下し、思い沈んでいるのだろうかという気がした。そして、同じように、次の句に自己肯定感の低さを感じた。

雨ふるふるさとははだしであるく   種田山頭火 

この春、山頭火がよく訪れたという山口県の旅館西村屋に泊まった。中原中也が結婚披露宴を行った所でもある。文学に理解のあった先代に、彼らはよくしてもらったのだろう。しかし、家族や親族に迷惑をかけていると分かっている山頭火にとって、「ふるさと」は「雨ふる」所であり、「はだし」で歩かねばならぬ所である。それゆえにまた、「はだし」で歩き、自分の体にふるさとの感触を染み込ませたいのだろう。雨をよけるのは、雲水姿の彼の頭にある笠のみであり、それは、次の句の犬の姿にも通じる。犬というのは、確かにこの句のようであるし、人は時として犬のように生きねばならぬことがある。

梅雨の犬で氏も素性もなかりけり   安住 敦

惑ひつつ梅雨ふかき道にいでてきつわが妻襤褸(らんる)子らも襤褸    宮 柊二
 

千年に一度という大地震と大津波に、原発事故。未曽有の厳しい状況の中で生きねばならぬ東北地方の人たちは、どんなに情けなく辛い思いで日々を過ごしておられるだろうと思った時、この句と歌が頭に浮かんだ。歌は、昭和二十八年に出された『日本挽歌』に収められている。戦争と戦後の混乱を、ぼろぼろになりながら生きてきた家族が、「襤褸」に象徴されていると読んだ。家族・住まい・仕事・財産…、これまで「自分」を作り上げていたものを失ってなお、人は生き続けなければならない。そして、人は限りなく強くなっていく自分を感じるのである。気持ちを奮い立たせて新たな一歩を踏み出す時、ふさわしいのは、次の句のような大夕立かもしれない。

大夕立信濃を叩き甲斐へ去る     大峯あきら

自然の持つ迫力、ダイナミックな行動力と思い切りのよさ、それは呆気にとられると同時に羨ましくもある。また、次の句には、「この世」を隠してしまった「大夕立」への戸惑いと爽快感が感じられる。読み手が「この世」をどうとらえているかによって、全く逆の読みが可能な句だと思うが、どうだろう。

大夕立この世かくしてしまひけり   伊藤 通明

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まっしぐらに生きたきわれら竹群へ夕立の束(たば)どっと落ち来る   佐佐木幸綱

この歌には、夕立への憧れがある。あれこれ思い煩うことなく、真っ直ぐ太く激しく天から降ってくる、この雨のように生きたい。そんな作者の願いと精神的な強さは、次の歌にも感じられる。失いつつある若さを、自らを励ますことで取り戻そうとする勢いと力強さ、体育会系の逞しさがある。

池の面めがけて注ぐ雨足をえいっ、えいっと見ているこころ      佐佐木幸綱

前にあげた大夕立の句やエネルギッシュな歌を受けとめるには、次のような大きな句がふさわしい。

さみだれに大きく口をあけて海    後藤 帰一

どんなに大量に降っても、海があふれることはない。海の中の鯨や魚たちまで大きな口を開け、嬉嬉として雨を受けているのではないかと、楽しいメルヘンを想像してしまった。次の歌は、海とは対照的な小さな水たまりに降る雨だが、夢のある空想に、思わず微笑んでしまった。雨はやがて蒸発して空へ帰っていくのだが、この結句には明るい発見がある。

結局は空へ帰りたい雨だ水たまりの中の空をノックす         久保田幸枝  

ところで、雨がノックする音ってどんな音だろうと思った時、次にあげる歌が目にとまった。

聴きゐるは雨にうたれる物のおとあめは己れの音とふをもたず     平井 弘

自分は雨音を聴いていると思ったが、よく考えてみると、それは雨の音ではなく、雨に打たれている物の音であるという、この歌の指摘は面白い。雨音に消される物音もあるが、確かに雨は「己れの音」というものを持たない。こう言われて初めて「そういえば…」と、私の頭にさまざまな雨音が浮かんだ。 
さらにいえば、雨の始まりは、次の句のようであったのだ。部屋で過ごしている時、なんだか静かな気配がして、外に目をやると雨がしめやかに降っていたりする。まだ草木の葉を激しく打つというほどではなく、雨が緑の中に吸い込まれていくような遠慮がちな降り方である。それはやがて長い梅雨となり、時には洪水を引き起こしたりもするのだけれど。

樹も草もしづかに梅雨はじまりぬ   日野 草城

あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」さう、けふもさみだれ   松平 修文

雨に降りこめられ、外出もままならぬ日々が続くと、外部からの刺激が嬉しい。雨の中、わざわざ葉書を出してくれた「あなた」。「あなた」からの葉書は「あなた」そのもののようで、すぐ傍で言葉を交わしているような親しみを感じる。

梅雨見つめをればうしろに妻も立つ  大野 林火

妻とゐて妻恋ふるこころをぐらしや雨しぶき降るみなづきの夜        伊藤 一彦
 

こちらの句と歌は、一緒に暮らす妻を詠みこんだ作品である。長く続く雨を静かに見つめている作者と、背後に立って同じように雨を見ている妻。黙っていても、互いに思いは通じているのだろう、妻への愛を感じる句だ。歌の方は、さらに恋心が加わる。が、それは「をぐらし」。作者の体と心の奥深いところに、ふだんは身を潜めている情愛だ。下句の情景に刺激を受けたのだろう、改めて意識した自らの情念が、静かに息づいている歌である。

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さて、次の一句と二首の主人公は、女の人である。

夕立にひとり外みる女かな      宝井 其角

この句の場合は「夕立」で直に止む雨だが、それでも女が「ひとり外みる」風情は物憂げで、小野小町の歌「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」を連想してしまう。雨に包まれる「ひとり」は、物思いを誘うのだ。

いちにちを降りゐし雨の夜に入りて止まずやみがたく人思ふなり      藤井 常世

朝からずっと降っていた雨は、夜になっても止まない。一日家に閉じこもっていると、人恋しくなるのだろう、「人」を思わずにはいられない。雨にすっぽり包まれて、自分の内面と向き合うことになった作者には、どこか恍惚とした心地よさもあるようだ。

一身の外側ただに雨降るとぬきさしならず思ふことあり          安永 蕗子 

自己と他者との隔絶感と言おうか、雨に包まれれば包まれるほど、決して雨と同化することがない自分というものを感じるのだ。この孤独感に心はおののき、体は冷えきっていくようである。次の句の女の人も、状況は違うだろうが、孤独な印象を受ける。

梅雨の窓過ぎる女の人魚めく     森山のりこ 

「人魚」というとすぐに、アンデルセンの『人魚姫』を連想してしまう。美しいが悲しい存在である。窓越しに外を見た作者の目は、びしょ濡れになって体の線もあらわな、髪の長い美しい人をとらえた。もはや雨を厭う気配もなく、むしろ雨のひんやりとした感触に包まれた身を楽しむようでもある。それは、外は海であろうかと錯覚しそうなほどであった。

素潜りに似て青梅雨の森をゆく    松永 典子 

濡れることを積極的に受け入れたら、この句のようになろうか。人目の気になる街中でなく、緑の葉が茂る森であることが嬉しく、心地よさを誘う。海や川、そして雨、「水」の好きな作者なのだと思う。私も「水」が好きだが、植物にはかなわない。

昼冷えて雨通りゆく図書館に這ふ蔦の葉はあまねく青し          篠 弘

雨をたっぷり受けて、図書館は外壁も窓もぐっしょりと濡れている。梅雨寒という言葉を思い出すほど、室内もひんやりしてきた。雨に閉じ込められひっそり過ごす人間とは対照的に、雨に勢いを得て、元気に伸びていく蔦の葉は、みずみずしい緑で気持ちよさそうである。学ぶ喜びを知った若者もこんなふうであろうかと、図書館の好きな私はふと思った。

梅雨清浄葉をひろげゐる樹々の上に  野沢 節子

プラタナス濡らして夜の雨がふる濡れたきものは濡らしてやれよ     藤原龍一郎

雨に濡れる心地よさというものがある。「清浄」は「せいじょう」であり「しょうじょう」でもある。私欲なく心清らかに、あらゆるものに降り注ぐ雨の豊かさを思う。その慈悲深さは、葉を広げる樹々はもちろん、人間にも注がれる。濡れることによって洗い流されるのは、土埃だけではないのだ。十代の「闇」も、雨は知らぬ間に洗ってくれていたのだ。時を経て、後から気づく優しさというものがある。

十代の我(あ)に見えざりしものなべて優しからむか 闇洗ふ雨      大辻 隆弘

水無月の光を曳きて雨は降る水から生まれしものたちのため       今野 寿美
 

雨の慈愛に感謝している人やものがたくさんあることを知っている人の、生命の根源に触れた美しい歌だ。言葉も視点も魅惑的で、心に残る。

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  【写真はすべて6月下旬に池田市城跡公園にて撮影。】

テーマ:俳句 - ジャンル:小説・文学

心に響く本-原発関連の本
 東日本大震災から4か月が経ちました。混迷の政局の中で、現地ではどんなに情けない思いをされていることでしょう。また、福島原発の事故では、今も現場で収束に向けて必死で働いておられる方々には、頭が下がります。そのことは承知の上で、やはり原発については、今後の日本・地球を考える上で、黙っていてはいけないと感じています。原発問題は、発電所のある地域だけの問題では済まないと思うからです。

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*ソフトバンクに続き、NTTドコモも電気事業に参入するそうです。風力や太陽光を利用した発電で、自社が使用して余ったら売るそうです。他にも、自家発電装置を持つ企業は、それを活用する方向だそうです。政府がもたもたしている間に、企業は原発に見切りをつけ動きだしているようです。いつだって、民間企業の経営者の方が、フットワークも軽く賢明であるなと、先日も「脱原発」宣言をした城南信用金庫の吉原理事長の話(この会社のHPで見られます)を聞きながら思いました。


7月8日の朝日新聞朝刊を読んでの感想
*1面の記事から
7月7日参院予算委員会での菅首相の「原子力エネルギーへの依存を白紙にし、再生可能エネルギーと省エネルギーを大きな柱にしていく」との提起には、大いに賛同します。だが、どうにもやり方がまずいようです。首相の意見が再三ぶれ、政権内部での説得力を失っているのは、どこに原因があるのでしょうか?この提起を、本気で押し通す覚悟はあるのでしょうか?そうであってほしいし、そうであれば応援したいと思っていますが、今までの経緯から信頼しきれないのが残念です。

*15面耕論の「原発とイデオロギー」から
私は、作家・慶応大講師の竹田恒泰さん (1975年生まれ・明治天皇の玄孫やしゃご)の意見に、一番共感を覚えました。すべてを引用したいのですが、長くなるのでまとめながら紹介します。

私は皇室につらなる家に生まれた生粋の保守派です。それに、筋金入りの反原発論者です。いまこそ日本から原発を徐々になくしていくべきだと主張しています。世間では「反原発=革新」「原発推進=保守」という図式で見られますが、私は反原発と保守は矛盾しないと考えます。
私が「原発反対」を言い出したのは、高校時代の英語のディベート大会がきっかけで、あらゆる原子力の本を読破してからです。また、大学時代に原発労働者の被曝の実態を知ったことが大きかった。(以下、その詳細)
原発の賛否とイデオロギーは本来、直接関係がない。エネルギー政策は最も重要な国策ですから、保守も革新も先入観を排し、真の国益を考えた論議をすべきなのです。私自身は、日本は脱原発を実現させ、クリーンエネルギーの先駆者として世界をリードすべきだと考えます。


全くその通り。1冊でも「原発」に関した本を読むと、いかに「原発」が嘘と欺瞞に満ちた存在だったかがわかります。まずは省エネルギー社会を実現・維持し、さらに将来の資源枯渇に備え、日本の優秀な科学者に再生可能な安全なエネルギーを作り出してほしいと思います。私たちも利便性や快適さばかりを追求するのではなく、自然環境とうまく折り合いをつけながら暮らしていきたいです。夏には夏の暑さがあって当たり前、それを朝・夕の涼しさでしのぎながら、夏の風物詩を、夏らしい衣食住(=涼しさを感じるような…)をすることで楽しみたいと思います。


*取りあえず「原発」関連の本を…という方に、ぜひ!
小出裕章著『原発のウソ』(2011年・扶桑社新書・777円)をオススメします。
政府と大電力会社がバックについている「原発」に異を唱えるのは、著者に正義感と勇気がなければできないこと。1949年生まれの著者は、現在、京都大学原子炉実験所助教授です。原子力の平和利用を志し、原子力について学ぶうちに、その危険性に気づき、40年前から全国を回り、「原発」の危険性を訴え続けています。

本文(帯文)より~原子力のメリットは電気を起こすこと。しかし、メリットよりリスクのほうがずっと大きいのです。しかも、私たちは原子力意外にエネルギーを得る選択肢をたくさん持っています。

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心に響く本-万葉集ビジュアル版&展覧会
本日7月8日近畿地方梅雨明け。平年より13日早いそうです。真夏の日差しになりました!

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【2年前北京で衝動買いした日傘。光線を遮る部分が少なくて、出番がないのでせめて写真に。】

 今年、意識的に自分の中に取り入れたいものとして『万葉集』と「明日香村」があります。
今回は、それらのビジュアル版で読んでも見ても気持ちのいい本と、5月6月に行った展覧会のご紹介です。

『入江泰吉万葉花さんぽ』

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大和路の写真といえば入江泰吉さん、万葉集といえば中西進さんという、お二人の豪華なコラボによる『万葉集』好きには、たまらない一冊。
入江泰吉氏の『万葉大和路』から引用された次の文章(p129)が、文学の存在意義を示してくれているようで、私は大変うれしく思いました。
私は、今回の仕事を通して、大和のすぐれた風土に培われた上代びとの自然観、そして、その自然観に養われた美意識によって開花を見た万葉、その万葉が、わが民族独自の伝統文芸の成長のもとをなしていることを改めて知るとともに、『万葉集』そのものが、今日に遺された意義「詩は歴史よりも真実である」という万葉びとのその巧まざる真実の声を聞くことができたのである。


片岡寧豊著『万葉の花』

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万葉集に出てくる四季の花の図鑑として、植物の説明と写真がわかりやすく、また、歌の解説も簡潔で、いい本でした。昔から、動植物の名前を覚えるのが苦手で、苦手意識があるので逆になんとか勉強せねばとやっきになった時もありましたが、この本は写真が美しかったので、勉強という感じではなく気持ちよく読めました。繰り返し読んでいるうちに、植物に強くなっていそうです。
*この本は、大阪市立美術館であった「歌川国芳展」(4/12~6/5)の会場で買いました。若い人がたくさん来ていて、おまけに皆さん目を版画にくっつけるようにして熱心に見るので、びっくりしました。

  utagawakuniyosiura.jpg    utagawakuniyosinaka.jpg 【展覧会パンフ4面のうちの2面】


別冊太陽『万葉集入門』

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大学時代にきちんと勉強しておけばよかったなという反省とともに、今改めて『万葉集』に触れているところです。この本は、大きく美しい写真(大好きな写真家・井上博道氏の写真がたくさん)と丁寧な鑑賞文とで、初心者にも入りやすい本となっています。結構知っている歌が多かったので、親しみを感じながら読むことができました。
*この本は、奈良県立万葉文化館であった「日本のふるさと奈良 安野光雅展」で買いました。明日香村のスケッチ風の水彩より、私は絵本の原画の方が細かくて好きでした。

  nihonnohurusatoomote.jpg  nihonnohurusatoura.jpg 【展覧会パンフ表裏】

*明石市立文化博物館で7月16日~8月28日「放浪の天才画家山下清展」があるので、行きたいなと思っています。

*京都市美術館で6月25日から10月16日まである「フェルメールからのラブレター展」にも行きたいな。

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【歌川国芳「金魚尽くし」。満員なのと版画があまり大きくないのとで、よく見えず、図録を購入。】


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心に響く詩歌(句集)-たむらちせい句集『菫歌(きんか)』
 7月2日追加:お知らせ
青木拓人の初アルバム『NOTE TONES』(7月10日発売予定)が、アマゾンで買えるのを先ほど見つけました。「青木拓人」で検索できます。発売記念のライブもあります。詳しくは、右列リンクより。よろしければ、応援してやってください。


たむらちせい句集『菫歌(きんか)』のご紹介  

        kinka.jpg  (蝶俳句会/2011年/2700円)

 作者は1928年土佐市生まれ、1960年より伊丹三樹彦氏に師事。高知新聞俳壇選者、高知県俳句連盟会長、高知県現代俳句会長等を勤めるが、現在は一切辞任。「蝶」主宰、現在は顧問をされている。
第六句集となる『菫歌(きんか)』は、「菫が歌う」の意である。古代の人は草や木が発する言葉を聞きとめたという。その中でも菫の言葉がもっともわかりやすかったそうだ。
繊細な感覚をお持ちの作者は作句のみならず、俳句の朗読も深い味わいがあって魅力的だ。この句集も、氏の朗読の様子や声の調子・響きを思い出しながら読ませていただいた。
2001年から2011年3月までの738句が収めてあるこの句集から、年ごとに二句ずつ紹介したいと思う。帯文に「俳句は老境の華」という言葉があるが、人生を長く歩んでこられた故の深さが、多くの句から感じられる。

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2001年(平成13年)
鳥渡る遠き虚空に富士を得て
雄大な景色だ。「富士を得て」という結句に、鳥への労りや愛情を感じた。

人死んで月の明るき橋渡る
五・七・五の組み合わせが絶妙だ。緊迫感・寂寥感を「月の明るさ」が象徴している。

2002年(平成14年)
種売の去(い)にて日向を残しけり
涅槃会の時など寺の境内や参道などに、さまざまな店が出る。地面にござを敷いて商売をしていた人も、もう店じまいをしたのだろう。「日向を残す」という表現に心ひかれた。

亥の子餅婆やはらかな顔をせり
陰暦10月の亥の日は収穫祭。新しい米で作った餅は、誰をも幸せな気持ちにさせる。

2003年(平成15年)
笑ひ声せしは野仏菫摘む

吉田拓郎の「野の仏笑ったような…」という歌を思い出した。野仏は素朴で柔和なお顔だ。

影法師なき人たちと日向ぼこ
「日向ぼこ」の懐かしさが、今は亡き人たちへ思いを馳せさせるのだ。共感を覚える。

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2004年(平成16年)
銃抱きし日の枯野あり誰もをらぬ
「枯野」が現実の風景だけではなく、胸中にも存在しているのは、戦争体験があったから。

一本の冬木のために地平あり
凜とした冬木の立ち姿を見ると、このように言いたくなる。冬木への賛歌。

2005年(平成17年)
絵襖の姥に差しくる此の世の月
過去と現在の交叉が面白い。絵の姥も少し華やいでいようか。

夢の中まで紛れ込む落花かな
たくさんの落花を浴びた日は、確かに夢にまで桜の花びらが追ってきそうだ。

2006年(平成18年)
夢の切れ端繋げば花筏になりし
若い時からいくつも抱いてきた夢、どれくらい叶っただろう。「花筏」という発想が素敵。

耳鳴りを雁の羽音としておかむ
虻や蜂や蚊でなく、「雁」というのが、とても俳人らしい。

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2007年(平成19年)
ぬばたまの闇に螢と息合はす
とてもよくわかる。私も螢の明滅に息を合わせて見ていた記憶がある。

分け合うて田へ水の音立ててゆく
田の水の当番は大変だと聞く。水を平等に分け、皆の田の稲がよく育ちますように。

2008年(平成20年)
少年院の紫陽花 雨の銀の柵
寂しいけれど作者の優しさを感じる句だ。あまり詠まれない題材だが、どの語もふさわしい。

死ぬときの一言は蜩に習ふ
蜩の「かなかなかな」という鳴き声は、切なく寂しい。季節の終わり、そして蝉の一生の終わり。

四万十川に沿ひ月光の曲りゆく
川の両岸は草原で暗い。川面に月光が反射し、川の流れが見えて美しい。

2009年(平成21年)
荒星や勤評闘争以後孤独
教師をされていた作者。穏やかな風貌の内部に、芯のように持ち続けている思いがあるのだ。

十二月八日の無言館に入る
日本が真珠湾を攻撃した日。戦場に駆り出された若者たちが残した絵が、ここにある。「十二月八日」と「無言館」が有無を言わさぬ強さで、反戦を訴えている。

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2010年(平成22年)
桜の夜次の世に逢ふ握手して
桜の尋常でない美しさは、人に生死を考えさせてしまう。

孤老と猫の暮しちりめんじやここぼし
この軽妙さが、猫好きの私には嬉しく思えた。「孤老」と「猫」は似合う。

バナナ一本食べて笑つてまだ此の世
「バナナ」という軽さが、いい。悟りの境地に作者はあるか。

あるだろう水母になつて浮かぶ日も
生まれ変わったら自分は何になっているだろう。水母(クラゲ)も案外悪くないか。

2011年(平成23年)
地図から消えた村の李(すもも)の花盛り
社会性と自然の美と両方を詠み込んだ句で、とても印象に残った。

大和しうるはし千手は落花享けるため
慈悲の「千手」が「落花」を「享(う)けるため」であるという、耽美的な空想が「大和し(強め)麗し」と合っていて、春を豊かに享受できた。

 言葉遣いに格調があって、気持ちよく読めた句集だった。未知の言葉に出会って辞書を引くのも楽しく、とても良い勉強をさせてもらえたと感謝している。

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プロフィール

大空の亀 

Author:大空の亀 
写真の猫は姉のハオと弟のミュー。
ハオは2006年5月5日生(伝)。
ミューは2008年10月10日生(伝)。

空と言葉と草木花が好き。
趣味は読書・文芸。

読書ノート歴33年。
年間読書冊数の平均は、学生時代は
300冊、就職後は100冊~150冊。

ブログ歴 11年8カ月
2006年 3月17日から始めました。
2006年 9月 9日カウンター22222通過
2007年10月24日カウンター77777通過
2008年 5月23日カウンター100000突破 !
2008年 9月 8日カウンター111111通過
2011年 5月 4日カウンター200000突破 !
2012年 1月10日カウンター222222通過
2014年 9月15日カウンター300000突破 !
2017年 9月26日カウンター343434通過



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