心に響く本・詩歌・言葉・音楽・風景
私の読んだ本や聴いた音楽、出会った風景の中から心に響いたものを紹介します。
季節の詩歌(23)~雨のすること~
 俳句雑誌「空」37号(2011年6月15日発行)に載せていただいた拙文です。

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季節の詩歌(23)~雨のすること~

年をとるにつれて体の水分が失われていくせいだろうか、雨が降ると体がほっとする。そんな私の気持ちにいちばん近い詩は、八木重吉の「雨」だ。

雨は土をうるおしてゆく / 雨というもののそばにしゃがんで / 雨のすることをみていたい

軒下か傘をさしてか、いずれにしても室外で雨のそばにしゃがんでいる作者がいる。雨脚はまだ強くない降り始めたばかりの雨だろう。雨が、乾いていた土の色を変え、しだいに地面を潤していくのを見ていると、その雨が自分の体や心にも入っていく気がするのだと思う。やがて雨に包まれ、人も人を取り巻く世界も、しっとりと落ち着いてくるのだ。

かぎりなき雨の中なる一本の雨すら土を輝きて打つ           山崎 方代

この歌の作者も、雨の動きとそれを受け止める土をじっと見つめている。「雨すら」という言葉に、人の世における自分という存在を卑下し、思い沈んでいるのだろうかという気がした。そして、同じように、次の句に自己肯定感の低さを感じた。

雨ふるふるさとははだしであるく   種田山頭火 

この春、山頭火がよく訪れたという山口県の旅館西村屋に泊まった。中原中也が結婚披露宴を行った所でもある。文学に理解のあった先代に、彼らはよくしてもらったのだろう。しかし、家族や親族に迷惑をかけていると分かっている山頭火にとって、「ふるさと」は「雨ふる」所であり、「はだし」で歩かねばならぬ所である。それゆえにまた、「はだし」で歩き、自分の体にふるさとの感触を染み込ませたいのだろう。雨をよけるのは、雲水姿の彼の頭にある笠のみであり、それは、次の句の犬の姿にも通じる。犬というのは、確かにこの句のようであるし、人は時として犬のように生きねばならぬことがある。

梅雨の犬で氏も素性もなかりけり   安住 敦

惑ひつつ梅雨ふかき道にいでてきつわが妻襤褸(らんる)子らも襤褸    宮 柊二
 

千年に一度という大地震と大津波に、原発事故。未曽有の厳しい状況の中で生きねばならぬ東北地方の人たちは、どんなに情けなく辛い思いで日々を過ごしておられるだろうと思った時、この句と歌が頭に浮かんだ。歌は、昭和二十八年に出された『日本挽歌』に収められている。戦争と戦後の混乱を、ぼろぼろになりながら生きてきた家族が、「襤褸」に象徴されていると読んだ。家族・住まい・仕事・財産…、これまで「自分」を作り上げていたものを失ってなお、人は生き続けなければならない。そして、人は限りなく強くなっていく自分を感じるのである。気持ちを奮い立たせて新たな一歩を踏み出す時、ふさわしいのは、次の句のような大夕立かもしれない。

大夕立信濃を叩き甲斐へ去る     大峯あきら

自然の持つ迫力、ダイナミックな行動力と思い切りのよさ、それは呆気にとられると同時に羨ましくもある。また、次の句には、「この世」を隠してしまった「大夕立」への戸惑いと爽快感が感じられる。読み手が「この世」をどうとらえているかによって、全く逆の読みが可能な句だと思うが、どうだろう。

大夕立この世かくしてしまひけり   伊藤 通明

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まっしぐらに生きたきわれら竹群へ夕立の束(たば)どっと落ち来る   佐佐木幸綱

この歌には、夕立への憧れがある。あれこれ思い煩うことなく、真っ直ぐ太く激しく天から降ってくる、この雨のように生きたい。そんな作者の願いと精神的な強さは、次の歌にも感じられる。失いつつある若さを、自らを励ますことで取り戻そうとする勢いと力強さ、体育会系の逞しさがある。

池の面めがけて注ぐ雨足をえいっ、えいっと見ているこころ      佐佐木幸綱

前にあげた大夕立の句やエネルギッシュな歌を受けとめるには、次のような大きな句がふさわしい。

さみだれに大きく口をあけて海    後藤 帰一

どんなに大量に降っても、海があふれることはない。海の中の鯨や魚たちまで大きな口を開け、嬉嬉として雨を受けているのではないかと、楽しいメルヘンを想像してしまった。次の歌は、海とは対照的な小さな水たまりに降る雨だが、夢のある空想に、思わず微笑んでしまった。雨はやがて蒸発して空へ帰っていくのだが、この結句には明るい発見がある。

結局は空へ帰りたい雨だ水たまりの中の空をノックす         久保田幸枝  

ところで、雨がノックする音ってどんな音だろうと思った時、次にあげる歌が目にとまった。

聴きゐるは雨にうたれる物のおとあめは己れの音とふをもたず     平井 弘

自分は雨音を聴いていると思ったが、よく考えてみると、それは雨の音ではなく、雨に打たれている物の音であるという、この歌の指摘は面白い。雨音に消される物音もあるが、確かに雨は「己れの音」というものを持たない。こう言われて初めて「そういえば…」と、私の頭にさまざまな雨音が浮かんだ。 
さらにいえば、雨の始まりは、次の句のようであったのだ。部屋で過ごしている時、なんだか静かな気配がして、外に目をやると雨がしめやかに降っていたりする。まだ草木の葉を激しく打つというほどではなく、雨が緑の中に吸い込まれていくような遠慮がちな降り方である。それはやがて長い梅雨となり、時には洪水を引き起こしたりもするのだけれど。

樹も草もしづかに梅雨はじまりぬ   日野 草城

あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」さう、けふもさみだれ   松平 修文

雨に降りこめられ、外出もままならぬ日々が続くと、外部からの刺激が嬉しい。雨の中、わざわざ葉書を出してくれた「あなた」。「あなた」からの葉書は「あなた」そのもののようで、すぐ傍で言葉を交わしているような親しみを感じる。

梅雨見つめをればうしろに妻も立つ  大野 林火

妻とゐて妻恋ふるこころをぐらしや雨しぶき降るみなづきの夜        伊藤 一彦
 

こちらの句と歌は、一緒に暮らす妻を詠みこんだ作品である。長く続く雨を静かに見つめている作者と、背後に立って同じように雨を見ている妻。黙っていても、互いに思いは通じているのだろう、妻への愛を感じる句だ。歌の方は、さらに恋心が加わる。が、それは「をぐらし」。作者の体と心の奥深いところに、ふだんは身を潜めている情愛だ。下句の情景に刺激を受けたのだろう、改めて意識した自らの情念が、静かに息づいている歌である。

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さて、次の一句と二首の主人公は、女の人である。

夕立にひとり外みる女かな      宝井 其角

この句の場合は「夕立」で直に止む雨だが、それでも女が「ひとり外みる」風情は物憂げで、小野小町の歌「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」を連想してしまう。雨に包まれる「ひとり」は、物思いを誘うのだ。

いちにちを降りゐし雨の夜に入りて止まずやみがたく人思ふなり      藤井 常世

朝からずっと降っていた雨は、夜になっても止まない。一日家に閉じこもっていると、人恋しくなるのだろう、「人」を思わずにはいられない。雨にすっぽり包まれて、自分の内面と向き合うことになった作者には、どこか恍惚とした心地よさもあるようだ。

一身の外側ただに雨降るとぬきさしならず思ふことあり          安永 蕗子 

自己と他者との隔絶感と言おうか、雨に包まれれば包まれるほど、決して雨と同化することがない自分というものを感じるのだ。この孤独感に心はおののき、体は冷えきっていくようである。次の句の女の人も、状況は違うだろうが、孤独な印象を受ける。

梅雨の窓過ぎる女の人魚めく     森山のりこ 

「人魚」というとすぐに、アンデルセンの『人魚姫』を連想してしまう。美しいが悲しい存在である。窓越しに外を見た作者の目は、びしょ濡れになって体の線もあらわな、髪の長い美しい人をとらえた。もはや雨を厭う気配もなく、むしろ雨のひんやりとした感触に包まれた身を楽しむようでもある。それは、外は海であろうかと錯覚しそうなほどであった。

素潜りに似て青梅雨の森をゆく    松永 典子 

濡れることを積極的に受け入れたら、この句のようになろうか。人目の気になる街中でなく、緑の葉が茂る森であることが嬉しく、心地よさを誘う。海や川、そして雨、「水」の好きな作者なのだと思う。私も「水」が好きだが、植物にはかなわない。

昼冷えて雨通りゆく図書館に這ふ蔦の葉はあまねく青し          篠 弘

雨をたっぷり受けて、図書館は外壁も窓もぐっしょりと濡れている。梅雨寒という言葉を思い出すほど、室内もひんやりしてきた。雨に閉じ込められひっそり過ごす人間とは対照的に、雨に勢いを得て、元気に伸びていく蔦の葉は、みずみずしい緑で気持ちよさそうである。学ぶ喜びを知った若者もこんなふうであろうかと、図書館の好きな私はふと思った。

梅雨清浄葉をひろげゐる樹々の上に  野沢 節子

プラタナス濡らして夜の雨がふる濡れたきものは濡らしてやれよ     藤原龍一郎

雨に濡れる心地よさというものがある。「清浄」は「せいじょう」であり「しょうじょう」でもある。私欲なく心清らかに、あらゆるものに降り注ぐ雨の豊かさを思う。その慈悲深さは、葉を広げる樹々はもちろん、人間にも注がれる。濡れることによって洗い流されるのは、土埃だけではないのだ。十代の「闇」も、雨は知らぬ間に洗ってくれていたのだ。時を経て、後から気づく優しさというものがある。

十代の我(あ)に見えざりしものなべて優しからむか 闇洗ふ雨      大辻 隆弘

水無月の光を曳きて雨は降る水から生まれしものたちのため       今野 寿美
 

雨の慈愛に感謝している人やものがたくさんあることを知っている人の、生命の根源に触れた美しい歌だ。言葉も視点も魅惑的で、心に残る。

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  【写真はすべて6月下旬に池田市城跡公園にて撮影。】

テーマ:俳句 - ジャンル:小説・文学

この記事に対するコメント

いつもの事ですが、写真がすごい!
百合が勢ぞろいしていますね。


テレビには近県の「大雨洪水注意報」がよく流れていますが東京は雨が少ない梅雨でした。

台風が来ていますね。
大雨の被害が出ない事を祈ります。

普通?に降る雨はホッとしますね。
予定がない日はのんびりとした気分になり、大地が潤う感じが好きです。


二女が小学一年の時の作文に
「校庭に雨が降って水たまりが出来た。
 すぐになくなった。
 水たちは手をつないで旅に出たのかな」 (たぶんひらがなだらけ)
保護者会の時に読みあげられました。
親バカです。

【2011/07/15 18:52】 URL | ベンジャミン(keiko) #oUPgpoCM [ 編集]

ベンジャミン(keiko)さんへ
>水たちは手をつないで旅に出たのかな
「手をつないで」っていうのが、とてもいいですね。
子どもの豊かな感受性には、感心させられますね。

白百合を見ると、中学時代、赤痢で学級閉鎖になった隣のクラスに、むなしく活けたままになっていた白百合を思い出します。
前の日に、Kさんというお姉さんっぽい落ち着いた同級生が、家から持ってきて飾っていたのを知っていたので、その時とても悲しい花に見えました。

百合の花粉は、猫にとってはすごい有毒なんだそうです。
飼い主の知らない間に、花粉を体につけて、あの清潔好きの習性でぺろぺろ舐めて、死に至る猫もいるとか…。

いろいろな色の百合がありますが、やはり白が百合らしくていいですね。
白百合学園とか白百合女子校とか、よく聞きますものね。
お下げの清楚な女学生を彷彿とさせて…。
【2011/07/16 14:58】 URL | 大空の亀 #- [ 編集]


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大空の亀 

Author:大空の亀 
写真の猫は姉のハオと弟のミュー。
ハオは2006年5月5日生(伝)。
ミューは2008年10月10日生(伝)。

空と言葉と草木花が好き。
趣味は読書・文芸。

読書ノート歴33年。
年間読書冊数の平均は、学生時代は
300冊、就職後は100冊~150冊。

ブログ歴 11年7カ月
2006年 3月17日から始めました。
2006年 9月 9日カウンター22222通過
2007年10月24日カウンター77777通過
2008年 5月23日カウンター100000突破 !
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