心に響く本・詩歌・言葉・音楽・風景
私の読んだ本や聴いた音楽、出会った風景の中から心に響いたものを紹介します。
季節の詩歌(25)~紅葉かな~
 ご無沙汰しております。またまた久しぶりのアップです。仕事以外のことでやたら忙しくしており、やっと時間がとれました。「空」誌39号(2011年10月)に載せていただいた拙文です。これまたやっと行けた今年の箕面の紅葉と一緒に楽しんでいただけたら、うれしいです。

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季節の詩歌(25) ~ 紅葉かな ~               

『万葉集巻一』に、額田王の有名な長歌がある。天智天皇が内大臣藤原鎌足に詔(みことのり)して、「春山(しゅんざん)万花(ばんくわ)の艶(えん)と秋山(しうさん)千葉(せんえふ)の彩(いろ)」の興趣を競わせたときに、「秋山」と判定した歌である。

冬ごもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉をば取りてそしのふ 青きをば置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は

額田王は、鳥鳴き花咲く春よりも黄葉の秋に心ひかれるという。若い時にはさほど共感を覚えなかったが、大病を境に私も「秋山」派となった。次の句群は、まさに自分のことだと思って読んだ作品である。

まづ声の駆け出してゐる紅葉かな   武政 礼子

紅葉まで術後の力ためしおり      原田タキ子

恋ともちがふ紅葉の岸をともにして   飯島 晴子

上り行く道あたたまる紅葉かな     広瀬 直人

濃紅葉(こもみぢ)に涙せき来る如何にせん    高浜 虚子


庭木や街路樹など身近なところにも、もちろん紅葉した木々はある。しかし大自然の中に見る紅葉は格別である。手術後は養生が大切と、仕事以外の外出をできるだけ控えていた私だが、紅葉だよりが届くようになり、思い切って遠出をした。
車窓からも、現地に着いてからも、まず出たのは感嘆の声である。一句目、「駆け出す」という擬人法が効果的で、目の前に広がる風景に対する作者の感動が鮮明である。二句目のように、一歩一歩の力を試しながら、ゆっくりと目的の地まで足を運んだ。 
道中「無理するな」といたわる夫に、今までとは違う感情がわいてきた。三句目の「恋ともちがふ」というのがぴったりくるような、心の深いところでの連帯感である。四句目にあるように、私の身も心も「あたたまる」思いであったのは、体を動かしたり心が揺れたりしたからだけではなく、紅葉に包まれたのが大きな理由であったろう。
私が出かけたのは、兵庫県有馬にある瑞宝寺であるが、ここの紅葉は、それまでに見たどの紅葉よりも見事であった。極め尽くしたような濃い紅に、生ある喜びを強く感じ、虚子の句と同様、私も涙が込み上げてならなかった。散る前の渾身の力に人生を重ねることは容易だが、この句はそういう理屈を超えた「濃紅葉」の存在そのものへの感動であると、私には思われる。あれから十年になるが、今もあの情景を思い出すたびに、心が熱くなるのである。

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 私の個人的な体験を述べるまでもなく、紅葉への感動は多くの詩歌に詠まれ、同時に多くの紅葉の名所を生んできた。山、川、谷、寺社…そこには、どこか神さびた力も働いているようである。

大紅葉燃え上がらんとしつつあり   高浜 虚子

枝のべて水も燃えゐる紅葉かな    水原秋桜子


一谷を風わたるときさかんなる火鳴りのごとく紅葉うごけり    小中 英之

『万葉集』の時代、「黄葉」と書かれていた「もみぢ」が、「紅葉」と表記されるようになったことと、「燃える」という比喩とは関わりがありそうだ。「錦」に喩えられることの多かった紅葉に、炎の赤を感じた、その昂ぶりが虚子の句には出ている。紅葉が絶頂に到ろうとするときの生命力の高まりを、見事に表現した名句で、これを知ると迂闊に「燃える」は使えないなと思う。「水も燃え」とした秋桜子の句には、新しい発見と美へのこだわりが感じられる。冷静な知性が働いている気がするのは、晩秋の「水」の冷たさを連想するからだろうか。
短歌の方には、音も伴う動きの激しさがある。谷を渡る風に揺れ動く紅葉の枝葉の様子を、「火鳴り」と捉えることで、紅葉の中に見た情念をも表すことができたのではないだろうか。次の歌や句には、紅葉に魅入られ一体化してしまった作者がいる。

年古りし紅葉の一樹日を浴びて身にくれなゐの漲りひかる       来嶋 靖生

考へることやめし樹よ紅葉して    中尾寿美子


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日の光が当たる時とそうでない時とでは、紅葉への感動が全く違う。光は絶対的な条件であると言っても過言ではないと思うほどである。それにしても、この「身にくれなゐの漲り」という表現は、迫力がある。心を寄せ、作者が樹に同化してしまったに違いない。句の「考へること」を止めたのは、樹も作者も、であろう。圧倒的な美の前に、呆然としている作者。私ならたぶん、ぽかんと口を開け、美しい紅葉に見とれているだろう。次の歌と句は、「くれなゐ」に魂を奪われ、「われ」が木か、木が「われ」か分からないほどの状況と思われる。

身も魂(たま)もくれなゐに染みくれなゐにもみづる山をと行きかく行く     都筑 省吾

一本の紅葉に染まりゆくわれか    稲畑 汀子


紅葉の妖しい魅力にとりつかれた時、見えてくるのが「神」や「鬼」であるところが、妙に人間くさくて、私は次にあげる作品群を興味深く読んだ。

波うてる山ことごとくもみぢしぬ遠世のひとは神を見にけむ      大野 誠男

植林された年中緑の山と違い、広葉落葉樹の山々は全山色づき、息を呑む美しさである。緑から黄・朱・赤・紅と言葉では尽くせない彩りに、昔の人は「神」を見たであろうという、この歌。人力の及ばない大自然の美には、今の世の私たちも神秘を感じる。

尾も峰もはざまも赤く染まりたり少女となりて鬼出で来むか      都筑 省吾

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉    三橋 鷹女


紅葉は色鮮やかで華やかであるから、出現する鬼も「少女」や「女」であろうと連想するのは、とても納得がいく。同性の友人と紅葉狩に出かけた時のことだ。見ても見ても尽きぬ紅葉の美しさに、私たちの興奮度は高まるばかり。あのまま日が沈まなければ、狂喜のあまり、私たちは鬼になっていたかもしれない。男性の心理は分からないが、試しに、「少年の鬼」「鬼男」と書き換えてみて、改めて、「紅葉」と「女」の結びつきの強さを感じている。

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 「紅葉」というと、いまや「楓」の代名詞のようであるが、色づくものは、桜・欅・櫨・蔦・草など多彩で、色も様々である。特に「黄葉」の代表として、公孫樹の黄色は欠かせない。

金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いてふ)ちるなり夕日の岡に  与謝野晶子

小学生も知っている有名な一首で、文句なしの巧さである。比喩・色彩・時間・動き・リズム、どの一語も無駄がなく、誰の脳裏にも明確な像を結ばせる。一読して覚えてしまう名歌は、次のような機知に富んだ歌を生ませることとなる。
この歌の作者は、銀杏の落ち葉を見るたびに、「金色のちひさき鳥」という比喩が浮かんでしまうのだろう。過去のものを知れば知るほど、表現者としては、新しいものを生み出す辛さがある。そんな自分への苛立ちが、「踏みつけて」というきつい言葉になったのか。現代的で面白い歌だ。

金色(こんじき)のちひさき鳥という比喩を踏みつけて歩(ゆ)く銀杏並木路   宮原 望子

散る銀杏の比喩で晶子を超えることは、なかなか難しいことだろうと思っていた時、次の歌に出会った。

風のたびあまたの金の葉揺りあげて公孫樹はすでに塔といふべし      松坂 弘

大学構内で、公園や神社で、公孫樹の大木をよく見かける。また、それら樹齢の長い木を、それぞれの場所のシンボルとしている例も多い。それを「塔」ととらえたこの歌は、新しい見方で説得力がある。次の句とも重なるが、明るい黄色の葉をたっぷりつけた公孫樹は、遠くからでもよく目立ち、思い出の中の心象風景とも重なる。

とある日の銀杏もみじの遠眺め   久保田万太郎

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大阪では御堂筋の街路樹が有名な銀杏だが、実は、東大・阪大などの校章デザインにも使われている。そんなことも思い合わせて次の句を読むと、想像の翼が広がり、「思慮ふかぶかと」という語に、人生後半期の思慮深さや豊かさを感じる。

黄葉して思慮ふかぶかと銀杏の樹   鷹羽 狩行

自分の人生の残りを意識するようになった時、殊更心に沁みるのが、晩秋の色づいた木々である。一木においても一色ということがなく、淡い黄色から茶褐色に至るまで葉の色は変化に富む。それぞれの個性と来し方を思わせる黄葉・紅葉に、自らの晩年を重ねる人も多いだろう。次の歌は、萩を、花よりは黄葉のころに見ようという言葉に、共感を覚えた作者の歌である。冒頭の長歌のように、花より黄葉・紅葉と思う人が、年齢と共に増えてくるのだろう。

萩むらは花よりも黄葉(もみぢ)のころに見ん八十歳の言のよろしも    醍醐志万子

水音と即かず離れず紅葉狩      後藤比奈夫

ほどほどに老いて紅葉の山歩き    能村登四郎


紅葉の名所には、渓谷や山が多い。空気の澄んだ自然豊かな地で、「即かず離れず」「ほどほどに」楽しむ姿勢には、人生経験を積んだ人たちの余裕が感じられる。次の歌の一・二句にも、軽やかな生き方が表現されていて、自分の身を縛るものから自由になった晩年の良さが読み取れる。

脚かるがる心かるがる去年よりもいくらか早きもみぢ葉の下を        清水 房雄

軽みの境地に至るほど悟れていない私は、次の歌のように、散りゆく葉に心を乗せて行こうと思う。花見と違って、ゆっくり味わいたい紅葉である。

身体(しんたい)にしまふ心の荷をほどく 公孫樹が散つて楓が散つて     青木 昭子

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テーマ:俳句 - ジャンル:小説・文学

この記事に対するコメント

お久しぶりです。
お忙しいようですがお身体は大丈夫ですか。

亀さんの紅葉の写真は風の音が聞こえてきます。
紅葉に間に合って良かったですね。


何か大きなことを経験した後は心の持ち方が変わります。
平凡に暮らしていた日々に突然夫の病気、娘の結婚、夫の死・・・
そして大震災です。
その度に振り返って心を整理し、生き方を考えます。
生き方が変わったかな。

やっぱり変わったと思います。
【2011/12/07 18:02】 URL | ベンジャミン(keiko) #oUPgpoCM [ 編集]

ベンジャミン(keiko) さんへ
こんばんは。コメント、ありがとうございます。

>紅葉に間に合って良かったですね。
そうなのです。今年は、京都も奈良も行かずで…。
出かけると、いろいろな発見や出会いがあって、やっぱり楽しいですね。
次回は、そんな写真をアップしたいなと思っています。

昨日のテレビで、奈良の正暦寺に紅葉が3000本!と言ってました。
来年は、そこ狙いで行ってみたいと思ってます。
この文章に書いた有馬の瑞宝寺も、ずっと行ってないので再訪したいです。

>やっぱり変わったと思います。
何を一番大切にするか、優先するか、考えますね。
今までの消費文化は、間違い。変えていかなくっちゃ…と、思います。
【2011/12/07 21:24】 URL | 大空の亀 #- [ 編集]


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大空の亀 

Author:大空の亀 
写真の猫は姉のハオと弟のミュー。
ハオは2006年5月5日生(伝)。
ミューは2008年10月10日生(伝)。

空と言葉と草木花が好き。
趣味は読書・文芸。

読書ノート歴33年。
年間読書冊数の平均は、学生時代は
300冊、就職後は100冊~150冊。

ブログ歴 11年8カ月
2006年 3月17日から始めました。
2006年 9月 9日カウンター22222通過
2007年10月24日カウンター77777通過
2008年 5月23日カウンター100000突破 !
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